宮本百合子その2

 コフマンの仮定をうけ入れるとして、人類の遠い遠い祖先の女が針らしきものを社会生活にもちこんで以来、今日まで、女性のよりよく生きたいという希望は社会の発展とともにあらゆる面で複雑になり高度にもなって来ている。
 幾世代の歴史の間で、人間はたしかに進歩して来ているのだけれど、その著しい進歩はどうして可能だったのだろう。
 例を近くにとってみれば、一人の男、一人の女がそんなに入り組んだ諸要素をもって生れて来ていて、それでどうして、その要素の各方面にひっぱられてしまわないで、半歩なり一歩なり前進して来ているのだろうか。
 結婚生活または家庭生活というものを、私たちはまだまだどこやら穴居人の洞めいたものに感じる蒙昧さがのこっていると思う。そこの内部は何か人目からかくされた場所で、そこにある丁度いい暖かさ、体にあった窪みを、ほかのものには相当堪え難い悪臭とともに、自分たちの巣の懐かしさとして愛着する、そういうところがありはしないだろうか。
 家庭のくつろぎ、居心地よさというものを、その人のよさ、ねうち、生活への美しい意企を誰よりも深く理解しあった者同士が感じ合える、その味いとしないで謂わば手ばなしでめいめいの癖を出し合える場面として、ひとにも云えないことの舞台としてしまうところはないだろうか。
 家庭の二十四時間にはその上に、どっさりの台所の用事もついて来る。洗濯盥の権利も主張される。それらは今日の私たちの生活の上で決して手綺麗にすまされ処理されることがらでなくなって来た。若い主婦はいかに明敏であろうとも、八百屋に足を運ぶ度数を減すことは出来なくなっている。

 今日家庭というものを考える私たちの心持は、おのずから多面複雑だと思う。
 家庭は今日大事とされている。貯蓄のことも、生めよ、殖せよということも、モラル粛正も、専ら家庭内の実行にかけられている。
 昨夜の夕刊には、大蔵省の初の月給振替払いの日のことがのっていた。月給百五十円以上の人々は、現金としては半額しか入っていない月給袋をうけとった。すぐ振替えをとることが出来るのだそうだけれど、私たちは閃くような思いで、うちはどうするのだろう、と考える。先日の新聞には、月給百五十円の人の家計は昨今五十円ずつ足を出して、それは赤字となっていることが報告されていた。私たちはみんな自分の実際でそのことは知っている。だから、それさえも半額ときくと、無関心でないのだと思う。
 段々民間にもその方法を試みると語られていて、その方法がひろく行われれば行われるほど家庭はどうやってゆくのだろうという思いがひろがるのではなかろうかと思った。民間のいろいろの業者・経営者にとって、月給はともかく現金では半額だけ手わたせばいいということは、不便な方法ではなかろう。悪質の支払主は、そこに相当の才覚と無恥とをくりひろげることは火を見るよりも明らかなのだから。そうしたら、うちはどうしてやって行くのだろう。
 学生の生活にも、そういう世間の動きは直接間接に響いているわけと思う。その面からだけでも、家庭と学生生活とのいきさつは、そうそう暢気に行ってもいないのが現実であろう。家庭の間で、学校へ行っている若者たちに対する大人の感情がどんなに変って来ているかというような点も相当微妙だろうと思う。学生を未来の担い手として愛し感じている風潮であるか、それとも、学生は未成人であるという面を強調して観られてゆくかということでは、人生の光彩が大分違って来る。
 たとえば、福沢諭吉の時代、学生というものはまぎれもなく未来の担い手としての理解において自他ともに存在させられていたと思う。上野の山に砲声をききながら、福沢諭吉は塾の講堂を閉さずに、経済学の講義をしつづけた。このことには、学生をいかに見るかということについての信念があらわれていると思う。

 軋むような、しかも陶酔して弾かれているような旋律の細かく高いヴァイオリンの音につつみこまれた感じで、夜の一時頃ヴォージラールのホテルへ帰って来た。いつもは十二時過ると扉もおとなしく片開きにしてある入口が、今夜はさあっと開いたままで、煌々と燈火のついた広間に人影もない。一階二階と正面階段をゆっくりのぼってゆくと、何処にも人影はないのに燈火は廊下毎に明るく惜しげない光の波の端から端までを照らしている。祭の夜にひっ攫われたような荒っぽさと寥しさがホテルの建物じゅうに満ちているところを追々のぼって五階の廊下へ出たら、ここの廊下も同じく隈ない明るさにしーんとしずまって、人気もない沢山のドアの前へ、どこの洒落もののいたずらか、男と女との靴が、一組一組、みんなちんばに、てんでばらばらな途方もない片方ずつによせあつめて散らかされている。ドアの内がひっそりとしているだけに、華奢な女靴と男靴とのごちゃまぜは何ともいえない諧謔があって、悪意なくこみ上げて来る笑いをおさえることが出来ない。六階はどうだろうと物ずき心を動かされ、すこし急いでのぼって見たら、やっぱり! ここにも同じことが起っている。それだのに、何処をさがしたって、廊下じゅう人っ子一人姿は見えず、自分の部屋のドアの前に立ってゆっくり鍵でそこをあけて入ったら、夏のほてりがいくらかこもりながらも涼しい風が暗い室へ入って来る。ヴェランダの彼方の祭の夜空にエッフェル塔のシトロエンの広告が、この高さでまた新しく甦って来る音楽やどよめきの上に、6シリンダア6シリンダアと機械的な明滅をつづけていた。